Suspicious Prosperity.

疑わしき繁栄

映画『アサシン・クリード』の感想と考察。※ネタバレあり

公開初日に映画『アサシン・クリード』を見てきました。

原作は一部のみプレイした程度の素人ですが、あの世界観や設定には唸らされました。パルクールアクションや主人公の衣装、イーグルダイブのコンセプトなど、非常にインパクトの強い要素を多数備えていて、ワクワクしたのを覚えています。

映画にもそのワクワク感はしっかりと受け継がれているようです…が、それだけでは済まないのが映画の難しいところなのかもしれません。

 

ゲーム原作映画の難しさ

今回のような「ゲーム原作の映画」を含め、原作あり映画というのはスタンスの取り方次第で大きく内容が変化するものと思われます。まず一つは原作ファンの期待に応える要素をしっかりと組み込んでいくというスタンス。もう一つは、映画単体として見たときの面白さを構築していくというスタンス。この二つは別に矛盾する概念ではありませんが、映画の要素として取捨選択を行っていくときにどうしても優先順位という形で結果には現れてきます。

雰囲気やアクションなど、原作再現ポイントはGood

たとえば良かった点として、過去のスペインの雰囲気について、(予備知識のない人間でもリアルっぽいと感じられるという意味で)非常にリアリティを感じますし、そこを舞台にしてアサシン達が飛び回るというのはゲームに近い、あるいはゲーム以上にエキサイティングな画としてスクリーンに映し出されています。これはゲームをやった人にとってはなかなかにたまらないビジュアルですし、実際とても評価されているポイントのようです。制作側も、ここだけは外さないようにしようという姿勢はしっかりあったのかもしれません。

キャラクターやシナリオ等、映画単体としての観点はやや厳しい

一方で、映画単体としてはどうか。個人的には、なかなかストーリーに引き込まれるのが難しかったです。

キャラクターとしての個性は、行動を通じて演出される

まず、主人公が「キャラクター」として個性を確立していないように感じられます。幼少期に母が殺されてそこから逃げ出し、大人になってからは殺人事件を起こして死刑になり、かと思えば謎の研究施設でモルモットになり…ストーリー上、ラスト付近に到達するまで主人公が何かを主体的に選び取る意思決定機会というのがなかなか与えられません。観客からすると、主人公の個性を示すようなシーンはあまり見られず、結局彼がどのような人間だったのかもわからずじまいです(実際、僕は主人公の名前を最後までいまいち覚えきれませんでした)。

観客は主人公の個性や人格について、主人公の行動を通じて把握します。一つは他者から何の強制もない自由な状態で何をするか、もう一つは外部からの働きかけに対してどのような反応をするか、の二つが手がかりになりますが、前者のシーンはそもそもストーリー展開上用意できず、後者のシーンは「まあ確かに普通ならそうするよね」という行動に落ち着くため、僕にはどうしても主人公の主人公らしさのようなものを見つけることができず、「身体能力の高い普通の人」以上の感想を持てませんでした。ヒロインいわく「暴力性が高い」という個性があるようですが、それも作中では「まあこのシーンではキレてもしょうがないよね」という非常に常識的なキレ方をしているように見えたため、個性にはつながらず。

主人公への感情移入を生み出す二つの視点

「映画の面白さ」の構成要素の一つに「主人公に感情移入できるか」というのは間違いなくあると思いますが、僕は感情移入というのは大きく分けて二つあると考えています。一つは、「こういう風になりたい」という積極的な感情により自分から主人公に同化しようとする自発的なもの、もうひとつは「自分に似ているかも」という類似性や「かわいそう」という同情からのめり込んでいくある意味で受動的なものです。

アサシン・クリード』はスタイリッシュなアクションを売りにしている部分もあり、おそらく前者のような自発的な感情移入を煽るような演出が必要なところであるように思うのですが、一方で人格的な部分が「身体能力の高い普通の人」にしか見えず、どうにも憧れを抱きづらい。いやアサシン教団の一員である時点で人格的にも普通の人ではないのですが、物語内の世界では普通ではなくとも、それを外部から眺める僕らからすると、想定される行動をそのまま取っている人、という意味で普通に見えてしまうわけです。

筋書きに同調するには、登場人物との危機感の共有が必要

また「エデンの果実」のヤバさがどうにも伝わってこなかったのもマイナスポイントでした。ゲームをプレイしている人であればわかることなのかもしれませんが、そうでない人にとってはあれがテンプル騎士団に渡るとどのようにヤバいのか、具体的な想像に至らないため、危機感を登場人物たちと共有できません。もっといえば、そのテンプル騎士団が現代シーンにおいて戦う相手はラスト付近までは「予算」と「締切」なので、ある意味でリアルはリアルな状態なのですが、僕らが娯楽に求める類の切迫感についてはあまり感じられず…。

それにしても、アサシン教団は自由意志を尊重する集団の割には戒律に厳しそうなイメージが…「闇に生き、光に奉仕する」というセリフがあったように思いますが、あれは「自分達は自由を捨てているが、自由のために奉仕する」という意味合いもあるのかなーと思いました(原作ではそのような言及があったりするのでしょうか?)。

何を目的に鑑賞するかで評価が変わりうる作品

などなど、上記のようなうーんとなるポイントはあるものの、ゲーム原作映画として及第点に達していないかというとそんなことはなく、「スタイリッシュなアクションを大きなスクリーンで見たい!」というファンのニーズにはしっかり答えているわけで、たとえばそれを無視する形で完全オリジナルストーリーを監督のセンス全開で表現したとしても、それはそれで叩かれるような気がします。

なので「原作ファンを大事にしつつ、原作を知らない人でもしっかりと感情移入して楽しめるストーリー」という通常よりも高いハードルを超えなければならないのが、原作あり映画なのだろうなーと感じる次第です。