Suspicious Prosperity.

疑わしき繁栄

思想戦の時代に、ミームライフルを放て。【概観編】

 見聞を広めることに喜びを感じるたちながらも出不精である、という矛盾した指向性を抱えている僕にとってTwitterというのは大変興味深いユニバースであり、見知った人々ばかりが並ぶFacebook等とは全く異なる言説が流れていくのもふむふむと頷きながら眺めている。

  特に政治・社会に関する意見については、Facebookではリベラル寄りなものが溢れてしまっているが、Twitterを見ると多様な立ち位置の人々がそれぞれの目線から論じていて面白い。Facebookは一度接続した人々と再接続する場である一方、Twitterは新たな人々と接続することも目的の一つとなっていることがそのあたりの差異を産んでいるのかもしれない。

 Twitterでの言論が現実社会にどれほど影響を及ぼしているかといえば疑問が残るところではあるけれども、時折見かける5,000RT等のヒット・ツイートの波及力を単純計算してみると、1次RTである5,000人×平均フォロワー数100名(リサーチバンクの2013年調査より)×タイムラインで目に止まった数(30%と仮定)=150,000人、それらのうち1%が更に再RTして…となると、再RT率をどの程度に置くかにもよるが、1%としても11次までの累積で「そのツイートを目にした人数」は20万人を超えた(※あくまで超単純な計算です)。
 そう考えると、フォロワー数の多いアルファアカウントと呼ばれる人達の意見は、表面化はしないまでもじわじわと閲覧者の思想回路に食い込んでいる可能性は否定できないようにも思われる。またTwitterでなくとも、匿名ブログに書かれた「日本死ね」が流行語大賞のトップテン入りをして話題になった例もある。

 となったときに、「思想戦」のような言葉が浮かぶ。先のアメリカ大統領選挙は非常にわかりやすい例だけれど、「どの思想が支持を得るか」というのは民主主義において重要度の高い命題であり、自分に不利益がある思想は徹底的に否定しておかなければ政治・社会がその方向に動いていってしまう危険性が生まれてくる。これほど個人の発信力が増幅された時代では、今まで以上に重要性が高まっていると思われる。

 Twitterにおいても思想戦の傾向は顕著で、僕の観測範囲だと「フェミvsアンチフェミ」や「反差別vs反反差別(差別容認という意味ではなく、反差別を自称する人々のやり方を否定するという意味で)」等で頻繁に武力衝突が生じているようだ。

  かつて、広く情報を発信するという行為は一部の人々が独占する特権だった。僕らのような名も無き市民は酒場で数人の友人たちとくだを巻くのが精一杯で、多くの人に自分の意見を知ってもらう機会など存在しなかった。

 それが今では、ソーシャルメディアという思想武器が誰にでも無料でアクセスできる場所に並べられている。自分の主義主張を伝える言葉は自軍の優位性を高める攻撃に相当する。一発一発の威力は弱くとも、個々人の努力と工夫次第で威力を高めることができる思想銃ミームライフル。まあ機能を正確にたとえるならば、銃器というよりは感染力のあるウイルス兵器という方が近いのかもしれないけれど。

 支配階級から思想や言論や表現の自由を奪い返した僕らは、更にそれを広く伝達する情報発信手段も民主化することに成功した。しかし皮肉なことに、その結果生まれているのは万人の万人に対する闘争の現代版であり、石槍からミームライフルに武器を持ち替えただけの野蛮人の様相なのではないか。

 あいつの意見を放置すると、こっちの権利が脅かされる。だから殴らなければ。

 甘い言葉に騙されるな。綺麗事に価値はないぞ。

 そんな不安と呪詛とそれぞれの正義感が綯い交ぜになった戦場が広がっているのが今のTwitter(の一部界隈)であるようにみえる。
 しかしこれも民主主義の真の姿のひとつなのかもしれない。権力者から統制されない思想は他の思想とぶつかり合う宿命にある。

 

 近日中に、上記のような思想戦の時代における戦略や打ち手についてどのように考えるべきなのか、続編を書こうと思います。