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Suspicious Prosperity.

疑わしき繁栄

間違いを供養するということ。

 ブログを書き始めるときに、まず最初に考えてしまうのは「これは本当に間違っていない意見だろうか?」ということだ。一つひとつの要素に対する認識の間違い、各要素の間の論理的なつながりの間違い…考え始めればキリがないと表現して差し支えないくらいには、間違いを犯しかねないポイントは転がっている。僕の性格的な問題も多分にあると思うけれど、インターネットで何かを書こうと考える人であれば多かれ少なかれ、自分の書いたことが間違いである可能性について懸念を抱くのではないだろうか。

 しかし最近は、やはり思う存分に間違えるべきだな、と思い直し、こうして思いつくままに文章を書き連ねている。理由の一つは、現実問題として「絶対に間違えない」ことは困難であるという諦めの観点。もう一つは、間違いな意見はその方向が間違いであることを世の中に知らせるためにも役立つという側面があるのではないか、という比較的建設的な観点による。これにももちろんデメリットはあるけれども。

  Twitterでは日々、誰かが誰かを批判しているし、僕個人としては、批判する側の理由についても一定の納得がある。たとえば「広まれば特定の誰かが不利益を得るにもかかわらず、それを検討されないままに良いものとして目されている思想」という間違った意見がある程度以上の支持を得ていれば、その「特定の誰か」はその思想について必死に批判する必要性が生まれるだろう。特にジェンダー関連については、下手をしたらこの世の半分が「特定の誰か」になりかねないので叩き合いも過熱している。

 間違いな意見を表明するデメリットは上記のとおりだけれど、これは正確に言えば間違いを指摘されても取り下げなかったり、特定の思想を支持すること自体が目的になってしまって認知が歪んでいるために生じるデメリットという側面が強いかもしれない。

 いずれにせよ、間違った意見を表明したとしても、その叩き合いを多くの人が目にすることこそが、多様性へとしっかりつながっていく道標になるのではないかと考えている。

 世の中に転がっている無数の現代的な問題群は、もはや少数の人間が頭をひねれば解決するような生易しいものではなく、個別のケースをかき集めて抽象化し、そこからなんとか共通項を拾い上げていくようなステップによってしか解決しえないものになりつつある、と僕は考えている。

 であれば、なるべく多くの人、幅広い属性の人々が、それぞれの視点から多種多様な声を上げていかなければ、バランスの取れた解決策は取れないだろう。ある意味で、社会問題におけるクラウドソーシング的な解決、あるいはバーチャル直接民主制とでもいうべき生態系が作り出されている必要がある。

 もちろんその先のステップとしては、出てきた意見を適切に統合するという地獄のような手続きが待っているけれど、その前段階として大量のケースデータがそろっていなければ、ディープなラーニングを行うこともできない。だから間違いかもしれなくてもしっかりと声を上げておき、誰かの目に触れることで、人類の脳という緩やかに相互接続されたストレージ群のどこかにデータの痕跡を残しておく必要があると思う。

 むしろ必要なのは、より正確な意見を表明しようという努力よりも、自分の意見が間違いであると指摘を受けた場合に、自分の意見に固執することなく冷静な観点で指摘の正当性を検証するという態度、そして間違いを指摘し合った後であっても笑い合えるような文化を作っておくことであるように思う。

 Twitterを眺めていると、結論が先にあって、それを最終的に言いたいがために後付でロジックを構築している例が本当に多い。その病に罹患している人は、反証を突きつけられても本人にしか理解できない理屈でそれを見ようとしなくなる。個人的にはこれを認知の歪みと呼んでいるけれども、患者は思いの外多い。自覚症状がないのがなかなか困難なところで、僕自身も無自覚に罹患しているかもしれないと日々戒めている。

 間違いを恐れないこと、そして間違いがあったとしても過度に叩きすぎないこと、そして大量の間違いケースを人類存続のために蓄積していくことが、このデータファースト時代においては大切なのではないだろうか。そしてせっかく考えたのに間違えてしまった意見も、その営みのなかでこそ「貴重な間違いデータ」として供養され、次への礎になるのだと思う。

 

 ちなみに、このブログに書かれているのもまた間違いの可能性に満ちたケースの一つに過ぎないので、間違いがあったとしてもどうぞお手柔らかにお願いします。

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