Suspicious Prosperity.

疑わしき繁栄

テクノロジーは物語のなかに。

 下記の記事にて、オバマ大統領とMITメディアラボ所長の伊藤穰一氏による、人工知能やテクノロジーに関する対談を読んだ。

wired.jp

 トロッコ問題の例にもあるように、テクノロジーの高度化が進むにつれてその影響範囲は加速度的に広がっている。これまで人間が扱う道具でしかなかったテクノロジー群はいつしか人間の重要な意思決定に食い込むようになり、そしてそれ自体を代替しうる可能性も見せ始めてきた。そのときに重要な問いは「どこまで機械に決定権を持たせるか?」というものになると思う。

  医者の代替として診断を行う人工知能があったとして、その診断結果を医者がしっかりと監督し、承認するというプロセスを踏むのであれば問題ないはずだという意見も見かけるけれど、それだと人工知能を使う意味の半分程を失っているように思える。遅かれ早かれ、どこかしらの領域(たとえば「簡単な診断」を定義する等)は人工知能に任せようという話になり、結局は程度問題の話になっていくだろう。

 高度に倫理的な領域にまで人工知能がその冷たい両腕を伸ばしたとき、僕らは何を頼りにそれを受け入れ、あるいは拒絶するだろうか。僕はそこに、このような分野では不遇な扱いを受けてきたある種の「文系的な素養」が活用されうるのではないかと考えている。

  最近Twitter等をよく賑わせているジェンダーLGBT関連の問題にも言えることだと思うのだけれど、倫理的な問題というのは他のすべてから遊離し独立した命題として存在しているのではなく、多種多様な背景、文脈のうえに成立しているものだ。「Aの場合にBのような対応をするのは是か非か?」とだけ問われても、「状況による」としか答えられない。いや、より正確にいえば、将来的に個別の命題にそれぞれ何らかの明快な答えを出せるとするなら、その「状況」を積み重ねることで共通点を見出していく作業が前提になる、と表現すべきかもしれない。

 いずれにせよ、その状況(ケース)を作り上げるには、文系的な素養が必要になる。ケースの当事者たる登場人物の持つ文化的な背景や生い立ち、現在置かれている状況とこれから進みたい方向などを物語的に処理したうえで、そこに存在する思考や意思決定の有様をシミュレートし、その登場人物のような人々が多数現れた際の社会的影響について考察する――このような想像的作業が行われて初めて、そこに関与する機械に許された領域について考察することが可能になる。

 まあ、「文系的」と表現しているのはある意味でのレトリックであって、たとえば人間の感情のスパークについて、置かれている状況のすべての要因の影響力を演算しながら生理学的に検証できるプロセスが確立されるならば、その限りではない。ただやはり、無数に存在する係数候補の一つひとつを検証し尽くす過程を踏むのはラプラスの悪魔を引っ張ってくるのでない限りなかなか難しいだろうし、それこそ人工知能を用いたとしても厳しいだろう。物事のゲシュタルトを感覚的に把握できる人間の認知能力は伊達ではないし、そのような積み重ねによって生み出される「規範」の効力もまだまだ捨てたものではない。

 現代社会においては、IT系ベンチャーの隆盛も手伝って「理系学問至上主義」的な空気が強まってきているように感じる。しかし今後、人間が、人間のために、人間によって機械との共存について何らかの線を引かなければならなくなった場合に、その手がかりを見つけるためには文系的な素養も大いに必要とされるのではないだろうか。