Suspicious Prosperity.

疑わしき繁栄

ロジカル正義論

 人間、生きていれば考えなければならないこともたくさん出て来るけれど、下手な考え休むに似たりという言葉もあることだし、なるべくならば効率的に、妥当性の高い答えにたどり着きたいもの。

 考えるといっても目的は多種多様で、バカ売れするような新製品のアイディアを考えたいのか、明日の献立を無駄なくお安く美味しく構成したいのか、顧客に自社製品を上手いこと買ってもらいたいのか、それぞれ思考回路は異なってくる。それでも何かしら共通項らしきものは見い出せるだろうということで、少し書いてみることにする。

 

 たとえばとある事件が発生し、その原因を考えたいというとき。ワイドショーのコメンテーターは随分適当なことを言ってるなーと思うことはないだろうか。おそらくその感性は正しくて、彼らはその事件の専門家でない単なるタレントなのであれば、そのとき思いついたことをもっともらしい顔をして話しているに過ぎない。それに何となく同調できるような気がして「そうかもしれない」なんて頷いてしまったら、あなたもきっと同罪です。何罪かは各自考えてください。

 少しでも真っ当に考えたいのであれば、最低限、①原因となりうる要素をなるべく漏れなく洗い出す ②各要素の原因としての妥当性を検討する という手順を踏む必要がある。実際には②を十全に行うことは難しいかもしれないけれど、①の一部だけでもやっておけば、条件反射な思考回路からは脱することができる。

 個人的な見解だけれど、「単なる思いつき」と「論理的思考」の最大の違いは、発想をそれぞれ平等に扱っているかどうか、だと思う。

 「私はこれが原因だと思うけれども、そうじゃないかもしれない」

 という発想には、自分がコミットしている意見とそれ以外の意見を平等に扱うことができなければなかなか至ることができない。逆に言えば、このスタンスをとることができたら、論理的思考のドアを叩くことができたといっても過言ではない。

 SNSを眺めてみると既に可視化されているとは思うけれど、一見もっともらしいようでいて「私がそう思うからそうなのだ」と言っているのと実質的に変わらない意見というのは本当に多い。うんざりするほどに多い。

 世の中はもう少し複雑な機序によって成り立っているし、その機序を無視するからこそ結果が歪む。複雑怪奇な機械仕掛けを修理するときにどのパーツがどのように作用しているのかを把握する必要があるのと同じで、複雑に絡み合った要素を紐解かずに結論に飛びつくのであれば、きっとその綺麗事の裏で誰かが泣く羽目になる。しっかり考えるのであれば、前述の①、②に加えて、各要素間の関係性を検討する必要があるだろう。

 英語圏のネットではSocial Justice Warriorという言葉があるらしい。どうも独善的な社会正義の名のもとに他者を無邪気に断罪する人々を揶揄するために生まれた言葉のようだけれど、この例を見てもわかるように、正義を名乗りたい人というのは思いの外多く存在しているようだ。

 定義どおり彼らの正義が薄っぺらいとすれば、その原因はおそらく、美しい理念や理想郷のイメージだけを信奉するがゆえに実行された場合の機序に思いを馳せることができず、美辞麗句の裏で虐げられる人々の存在を認識できていないことにある。さらにいえば、根本的に理想主義的なスタンスの方々なので、負の側面など見たくもないのだろう。

 よくある点と線という表現に沿えば、社会問題については個別の要素という点、各要素の影響関係という意味での線、そして特定の現象が生じた際には点と線の反応経路、という形でイメージされるべきものと思われる(恐ろしくざっくりと、だけれど)。

 どうしても正義というものを標榜したいのであれば、なるべく多くの点を見捨てずに直視すること、そして点と点の影響関係や反応経路、つまり物事が生じる機序について、誠実に見据える必要があるのではないだろうか。

 

 そういうことを考えながら書いているので、この文章も極めて論理的に記述されているかというと、案外そうでもない。理想と現実は違うのである。